永遠の故郷─夕映
夕暮れどきの、あいまいな精神性と現実性、生と死の境目を雰囲気にたたえ、
シューベルトの「菩提樹」(リンデンバウム)でクライマックスを迎える
露玉のようなエッセイ。
文そのものが音楽と同化し、ある種の楽譜とも言える、音楽を読み解くための
温かみある導き書である。
リンデンバウムを乃木大将を思うエピソード、金髪のジェニーと絡めるなど、
一人の人間が縦横無尽に一つの音楽ちそれを結ぶ様々な感性と、多様な芸術のエッセンスを
楽曲に束ねている。
音楽好きにも、そうでない人にもお勧めである。
悪人(上) (朝日文庫)
終章のクライマックスに至って「本当の悪人は誰なのか、何かのか」という問いかけが鮮明に出てくるようになる。それに伴い内容も俄かに濃いものを帯びるようになる。
悪人とは実は法律上は無実で、実際に殺してもいない増尾であり、房枝のような弱者を食い物にする健康食品会社の男たちであり、娘を失った父親に残酷なFaxを送りつけてくる見えない相手なのだ。
「あの人は悪人やったんですよね?」という実に人間的な哀愁にあふれた問いかけをしているその対象である祐一は、恋人の光代を庇うべく殺意を装い、自分を捨てた母親が「十分罰を受けた」と思えるよう、「敢えて」金をせびって「やる」ような人間だ。
出会い系で出会った相手から金をせびる佳乃は、霊の姿になって父親に謝罪する。
何もない人生ゆえに、一時的に好きになった相手の自首を思いとどまらせ、一緒に逃げる光代は、自分が脅して逃亡の道連れにしたという祐一の証言で、世間的には堂々たる「善」に回れる。
このように善悪がきっぱりと決められない人物像の中で、私にとって明らかに善だった唯一の人間は、孫、祐一の行いに心を痛め、弱者であり続けた人生を思い知らされる房枝に「ばあさんは悪かわけじゃなか、しっかりせんといかんよ。」と声をかけるバスの運転手だ。
彼が完全な「善」たり得ているのは単にこの小説の中でほとんど「不在」だからだ。
一番好きだったシーンの一つは、光代が祐一と逃げながら何もなかった去年の正月を思い浮かべるところだ。自分には欲しい本もCDもない、行きたいところも、会いたい人もいない・・・。
また、重厚なのは、自己犠牲ということをきちんと知りながら不幸な展開で殺人に至る祐一の「でもどっちも被害者になれんたい」(単行本、p.413)という言葉である。
読み始めた時は、ルポルタージュのような展開からカポーティの「冷血」を思い出したが、あっちの方はどういう「善悪」の分け方をしていたっけ?忘れてしまった。
コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
キレル、人たちが増えています。
子どもに限らず、青年も中年も老年もキレています。
それは、つながりがなくなったから=キレルなのだと思います。
本書『コミュニティを問いなおす』では、国家や都市といった大所高所の視線なのですが、
高度経済成長という神がいなくなった日本で、どのようなリンクがあり得るのかを探っていきます。
もちろん、インターネットもそうです。
余談ですが、携帯電話をなくしたりわすれたりする以上の不安というか恐怖をなかなか考えつきません。
携帯=ユビキタス=偏在=いつも誰かとつながることができる状態を保つ神器などという連想が浮かんできました。