コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
著者の広井良典氏(千葉大学)は、私が注目している数少ない学者の一人だ。2009年度「大佛次郎論壇賞」を受賞したこの書物は、「新書版」とはいえ300ページ近くあり、歯応え、読み応え十分の内容である。去る1月11日、“活字文化”と全く無縁らしい産×新聞のバ×記者から「政治課題が山積しているだけに、読書を楽しむヒマはあるのか」などと失礼な嘲罵を浴びせられた鳩山総理であるが、ア×記者どもは相手にせず、「福祉(社会保障)政策と都市政策の統合」等を論じた本書に目を通されても損はないだろう。
ところで、本書の感想を一口で表すのは難しい。著者も述べるとおり、この書冊は『グローバル定常型社会』(岩波書店,09年)と対になっているからだ。むしろ、私としては「オルタナティブな社会構想」などを提起していた『持続可能な福祉社会』(ちくま新書,06年)の延長線上で当書を読み終えたのだが、先発の「持続可能な福祉社会」論では「定常(環境)志向&(相対的に)大きな政府」=「ヨーロッパ型の社会モデル」を前面に押し出しており、“コミュニティ”論は、この“社会モデル”論の陰に隠れていたような気がする。
そういった意味で、著者は当書で思索の一層の推転を見せたけれども、著者の構想する“コミュニティ像”が鮮明となった、とは言い難い。だが、たとえば福祉政策について〈時間軸〉のみならず〈空間軸〉も重視する考え方や、「公=政府(ナショナル)、共=コミュニティ(ローカル)、私=市場(グローバル)」といった認識構造などは理解できよう。本書にも登場するロバート・パットナムは「社会資本」という概念を明確に示した政治学者だが、こうした視座等もさらに活用しつつ、“コミュニティ”論を大いに深めていって欲しいと思う。
猫のいる日々 (徳間文庫)
大佛次郎は、無類の猫好きで、彼の家には常時10匹以上、最大15匹の猫が住んでいた。累計すると、彼の家に住んだ猫は500匹を超えるという。
そのほとんどの猫たちが、捨てられたり、通ってきて居ついた猫で、足が不自由な猫や、人間の虐待を受けて目が見えなくなった猫まで面倒を見ていたというから、大佛次郎は実に偉大な人である。
「猫のいる日々」は六十篇近くの随筆と、小説一篇、童話四篇から構成されている。
随筆は、大佛次郎と猫との関わりや、彼の猫観がよくわかってなかなか興味深い。昭和のはじめから、書かれた年代順に並んでいるのだけれど、最初の方の作品に比べると、昭和四十年くらいからあと、年齢にして六十代後半以降に書かれた作品は、主題が猫とはほとんど関係ないものも多いし、内容も少し見劣りするように思った。
童話は、楽しいものや、しみじみとしたものがあるけれど、どれにも共通して言えることは、子猫の仕草や行動に、とてもリアリティーがあることである。さすが、500匹の猫と過ごしただけあって、猫に対する観察眼は常人のものではないのだろう。読んでいて、「そうそう」と何度も内心にやりとし、思わず膝を叩きたくなってしまう。
その中で、子猫が秋の虫の「スイッチョ」を飲み込んでしまう「スイッチョねこ」という童話は、大佛次郎自身が、自著の中で一番の傑作だと言い、この「スイッチョねこ」だけが、書いたのではなく生まれてきたのだ、と評するように、取り立ててダイナミックなストーリー展開はないけれど、ねこを愛する彼の心からぽっと自然に生まれでたような、しみじみと味わい深い作品である。
悪人(上) (朝日文庫)
もともと殺人とかがばんばんでてくるミステリー系は好きではないのだが、
(残酷な事件をたくさんいれることで、なりたっているようなストーリーは好まないので)
この作品は、非常に落ち着いた気持ちで読めた。
おそらく、保険外交員の女性が殺された事件をもとに、周りを取り巻く様々な人物の心理描写が
うまく描かれていることと、一人ひとりの登場人物の個性が、「ああ、こういうひといるいる!」
といった感じで身近なものであることで、とても現実的な話として、吸い込まれていくのだとおもう。
殺された女性は、よくいる若い女の子という感じがして、等身大の女性を描いている感じがした。
田舎から都会に出てきて、虚勢を張りたいがゆえについてしまう小さな嘘、出会い系サイトで知り合った男性
をぞんざいに扱うことで成り立つプライド。
殺人者になった土木作業員の男性も、寡黙で武骨、うちなる葛藤を続ける姿にも好感が持てたし、
容疑者であった大学生の、薄っぺらさも、ああこういう子いるなあ・・・という感じ。
時を忘れて、読書に没頭したいわ!というときに、お勧めの小説でしょう。