電波女と青春男 1(完全生産限定版) [Blu-ray]
これに尽きます!
キャラに愛情が沸くかどうか、アニメにおいて重要なことだと思います。
ぶっちゃけ最初の1話はよう分からんです。エリオは体に布団巻いて何喋ってるかも分からんし
全体的によく分からん感じのアニメな印象でした。
ただ、3話の最後でエリオがものすごくカワイイ!
それ以降は回を増す毎にエリオがかわいくなるし、話も面白くなる!
THE LAST A.I(初回限定盤)(DVD付)
安室ちゃんやSNOOP DOGG、
BOYZ 2 MENらとのコラボも
凄く魅力的ですが、
中でも特にお気に入りは
CHAKA KHANの名曲
「Through the fire」を
AIが見事に
唄い上げています。
オリジナルに負けていない…
これぞ正にレアものです。
「待つ」ということ (角川選書)
あらゆるテクノロジーの発達がもたらしたシステムの合理化と均質化によって、無駄なるものが社会からつぎつぎに排除されていく。それは、「待つ」ということとて同じ。あらゆる人が、待たなくても会えるようになっていく。あらゆるものが、待たなくても手に入るようになっていく。本書は、「待つ」必要がなくなった現代であるからこそ問い直す、「待つ」ことについての19章。
毎度のことながら、未だにパソコンの起動の遅さに少なからずイラだってしまういらち(関西弁で「気が短い、せっかち」)な僕のような人間からすると、「世の中にはまだまだ『待つ』ことが遍在しているじゃないか」と思えるのであるが、本書が扱うのはそのように予め未来(ここならPCの立ち上がり)が設定された「待つ」、ある種の「期待」を内包している「待つ」ではない。というよりか、本書はそのように終わりの保障された低次の「待つ」から出発して、何かを待つ、とはまた別の仕方の「待つ」の探求だ。
本書で著者が言おうとしていることは、武道論の観点から入ったほうがわかりやすいのかも知れない。武道でいうところの「居付き」とは、緊張のあまり体がカッチカチになってしまった状態、まさに床に足がついてしまったかのような状態を言う。敵の次の動きを予測するあまり、体が雁字搦めに、動かなくなってしまうのだ。
それは相手の反応に対するもっとも悪い「待ち」だろう。そういう「待つ」ではなく、本書が問おうとしている「待つ」とは、相手がたとえどのような動きをしてもそれに柔軟に対応するために、あえて何も予測しないでおく、「予測しないという予測」のことなのだろう。
あとがきで筆者が明かすとおり、この本の執筆過程に「産みの苦しみ」があったことは、節々からうかがい知れる。それだけに読みにくくはなっているが、思考の足跡のようなものが残っているため、本として味わい深いものになっているというのも、また事実。
GOLDEN☆BEST/加藤登紀子
同名のシングルベストが出ているが、
これはそれではなく、定評がある曲に、
人気シングルを含めた二枚組のベスト。
長い歌手生活の中で培われた表現力はもちろんだが、
良質な曲と詩に裏づけされた、独特な世界は、
誰にも追随を許さない、確かで豊かな場面が、
一曲一曲で立体的に繰り広げられる。
自身のヒット曲「百万本のバラ」や「知床旅情」
「琵琶湖周航の歌」「さくらんぼの実る頃」はもちろん、
他のアーチスト提供曲などもばっちり収録されている。
ただ、ひとつだけ注文をお願いするとすれば、
加藤登紀子のベストは、多数発売されているが、
ほぼ収録曲が横並びの感がある。
加藤登紀子の曲のよさは、シングルでは表現されないアルバムの曲に、
多くの良さがある。
ぜひ、そういう曲も取り上げてほしい。
魔法少女まどか☆マギカ 5(完全生産限定版) [Blu-ray]
私的に10話は神アニメと言われればもちろん! そうです! と肯定するにやぶさかでない気持ちであります。
以下ネタバレ全開で書きます。未視聴の方は是非飛ばしてください。未視聴で読んでも意味わかりませんし。
10話はほむらの過去が描かれるお話でした。なんと眼鏡っ子!で病弱であったほむほむが、まどかと出会うシーンから始まります。これは過去にあった出来事。というか、時間軸を何度もやり直された現在から見て、最初の時間軸の出来事となります。
ほむらは病弱で、友達の一人もいない子でした。そこで出会ったのがまどかです。まどかは誰にでも親切で、心優しい子です。
ほむらは初めての友人であるまどかに惹かれ、その死に直面して悪魔と契約します。まどかを救えるようになれる自分になりたい、と。エントロピーを凌駕するエネルギーを持つ感情には平等に奇跡を与えるQBは、彼女に魔法少女の地位と力を与えました。
そうして彼女はまどかを救うための無限ループに至るわけですが……。
私はこの10話を何度見返したかはわかりませんし、ほむらのあまりに悲しい成長の軌跡に何度も泣かされました。何べん見て泣いてんだよ?と自己ツッコミが入るくらい(^^; けど何べんも見てわかってきたことなんですが、これは、やはりまどかが主人公なのではないか? ということです。
ほむらは何度もループして、次第にこの地獄絵図に慣れて、「まどかさえ救えればいい」と思い至ります。マミさんは精神的な弱さを露呈してますし、さやかはほむらを信用していないし、そもそも彼女は最初の転校時点でほむらにとってモブキャラですしね。
ほむらは入院歴の長さもあって近視眼的であり、救うべき友人はまどか一人に絞られてしまっているのです。今までの実情を鑑みればまったくいたしかたないことではありますが。
けれどまどかは、そうではない。まどかはさやかを助けようとするし、マミさんの死をわが事と受け止めるし、ほむらのためにグリーフシードを与えます。全人類愛的とも言える願いでしょう。世界が滅ぶ時に、ほむらが「こんな世界滅べばいい」と吐露した時に、まどかが「こんな世界でも守りたいものがある」と吐露したことが鮮烈に対照されます。
まどかはなにも持っていないけれど、必要なことはほむらよりも全部持っている存在なのです。それだからこそほむらがまどかに惹かれるわけですが……。
このまどかの造詣、まさに往年の、いや現在も脈々と語り継がれる魔法少女ものアニメの主人公の造詣そのものです。そもは児童アニメを見る子供たちのための造詣ですが、逆説的に子供では決してない大人たちに、この場合はこうあるべきだろう? と問いかけます。
そして物語的にも、この閉塞的な世界を開放する手段は、近視眼なほむらではなく、見るべきものは見ているまどかだろう、まどかが解決するしかあるまい、と思わせます。よく考えると、だけどね。
感情がエントロピーを凌駕する、という設定は、より大きな感情は、システマティックなQBすら凌駕する、ということかもしれない。是非凌駕してほしい。愛と勇気が友達であるまどかが、ほむらやその他の現実の友達たちの思いとともに、凌駕してほしい。それでこそ、真の魔法少女ものである。