タルコフスキーとルブリョフ
−−伊勢丹前の新宿文化劇場で『アンドレイ・ルブリョフ』を見たのは一九七四年(昭和四十九)年十二月八日でした。戦中派の私にとっては、日本がハワイ真珠湾の空襲を開始した日に当たっていたことと、翌日、田中内閣に代わる三木武夫内閣が成立したことで記憶に残っているのです。ああ、もう二〇年もたったのかと、おどろきを禁じえません。(本書273ページ「あとがき」より)−−
本書の著者落合東朗(おちあいはるろう)氏は、1926年北海道に生まれ、1945年7月、満州のハルビンで関東軍に入隊、シベリアに抑留された後、帰国して早稲田大学でロシア文学を専攻した著述家である。氏は、ロシア正教に関心を持ち、ロシアのイコン(聖像画)に魅了されて居たと、本書の「あとがき」に有る。本書は、その落合氏が、タルコフスキーの傑作『アンドレイ・ルブリョフ』(1966年)の内容をシナリオに照らして検証しながら、当時のソ連の体制から考えれば驚くべき内容の作品であったこの傑作が撮影、製作された際の舞台裏を述べ、検証した研究書である。
本書を読んで興味深かった事の一つは、『アンドレイ・ルブリョフ』が撮影、製作されるに至った背景に、文芸界の自由派を批判した事で知られるイリイチョフ氏が、この作品の撮影にゴーサインを出した張本人だったと言ふ逸話であった。(本書93−94ページ参照)『アンドレイ・ルブリョフ』の中の科白通り、「ロシアは不思議の国」である事を痛感した。
(西岡昌紀・内科医/タルコフスキーの命日に)
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この映画は、ロシア中世の聖像画家アンドレイ・ルブリョフの半生を、想像の物語として描いた作品である。監督のアンドレイ・タルコフスキーは、詩人アルセニー・タルコフスキーの息子で、日本文化に深く傾倒して居た事で知られて居る。
旧ソ連は、巨費を投じてこの映画をタルコフスキーに製作させたが、完成した映画の内容は、その反体制的な内容からソ連当局の怒りを買ひ、1966年の完成後、ソ連国内では事実上上映禁止の状況に置かれる事と成った。その『アンドレイ・ルブリョフ』が、西側で知られる事と成ったのは、当時のフランスの文化大臣アンドレ・マルローが、この作品がカンヌ映画祭で上映される様尽力した事が大きいと言はれて居る。
1974年、この言わくつきの映画が日本で公開された時、私は、これを東京の映画館で観る幸運を得た。以来、今日に至るまで、この映画は、私の人生最良の映画である。−−あの鐘造りの若者の物語と、その後にヴャチェスラフ・オフチンニコフの音楽と共に画面に現れるルブリョフのイコンには、何度見ても感動を禁じ得ない。一枚の絵の陰に、歴史に埋もれた人々の悲劇と苦難が有った事を、この映画の末尾の部分は教えてくれる。−−私は、この映画は、世界映画史上最高の作品であると思ふ。この映画に出会へて、私は幸福であった。
(西岡昌紀・内科医/タルコフスキー没後20年目の日(2006年12月29日)に)
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正直映画という物にこれほど可能性があるとは思いもよらなかった。一人の非凡な芸術家の半生をしんしんとカメラが追い続けるそのスタイルには、普通の映画なら余裕でカットされてしまうシーンがテンコ盛り、ゆえに長い、不可思議、そして意味深、かつ段違いに静か。
イノセントであることを求めるがゆえに狂気の域にまで達してしまう人間芸術アンドレイの神に対する不器用な問いかけから、有神論者、無神論者とわず究極の人生に対する切実さを揺さぶられるそんな作品で、たぶんこういう作品にお金を出す人というのは、そうとうに真剣な人たちなんだろうと思われます。この作品が当時の映画界において相当な問題作であり、カンヌから返却され、ソ連政府から睨まれた理由は一見ですが、しかし無論そんなことは分かった上でタルコフスキーは創ったんだろうし、そこまでしても描く必要があったのでしょう。僕にはちっと重過ぎる、少なくても楽しむ映画ではないですね。
後年に「ノスタルジア」や「サクリファイス」を創ったタルコフスキーの芸術観や神秘感がこの時点でここまで高まっていたとは驚きを越えて唖然です。ロシアという究極に切実な土地柄の中でもっとも真剣な一人の表現者の超不器用で必死なマスターピース。愛も平和も、暴力や不正以上に危険なのかもしれません。同時に一生で一度でも一瞬でもこのぐらい本気になれる人ってたしかにいるのかもしれません。
1つ不平を言わせていただくなら、DVDとしての出来があまりよくない。これは他のタルコフスキーDVD集にも共通していることだが、本編以外に楽しめる映像がぜんぜん挿入されていない。これはちょっと異常だと思います。これほどの大作、これほどの表現者の珠玉の一品に対してあまりに手抜きな作りなのには怒りすら感じます。ゆえに、そういう物も含めて楽しみたいという人には、さきにビデオ屋で本編のみをレンタルしてからのお買い上げをお薦めします。まあ本編だけでも十二分に永久保存ではありますが...。