牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫 (く-1-2))
この本には、「牛肉と馬鈴著・酒中日記」の他にも、たくさんの独歩の作品を味わうことが出来ます。そして、その物語のほとんどが、あまり明るいものではありません。だけど、読後感は何だかサラリとしています。きっとそれは、国木田独歩という人が、澄んだ眼差しを持っていたからじゃないのかな、と、国木田独歩のことなんて何も知らないのにそんなことを感じてしまう不思議な本です。
あらすじで鍛える 速耳のススメDS
要するに、2倍速、3倍速、4倍速で音声を聞きながら、脳を活性化しようというもの。方法論としてはすでに実証的であると思います。さらには、日本文学の名作を教材にしているので、一石二鳥の効果はあるでしょう。
ただ、ゲーム性という観点から言うと、それほど面白くはありません。
一番問題なのは、ゲームそのものの量が少ないこと。
あと、旗上げ下げのゲームは、簡単すぎるうえに、5階間違うまで終わることができないので、最終的には疲れてきて無理やり間違って終わらせています。
まぁ速読のための一助けになるという割り切りで購入する分には、まぁまぁというところでしょうか。
武蔵野 (新潮文庫)
私は、『武蔵野』を読んで居ると、バッハの平均律クラヴィーア曲集を聴いて居る様な気持ちに成ります。例えば、この箇所がそうです。
−−まっすぐな道で両側とも十分に黄葉した林が四五丁も続く処に出る事がある。この道を
独り静かに歩む事のどんなに楽しかろう。右側の林の頂は夕照(ゆうひ)鮮やかにかが
やいている。おりおり落葉の音が聞こえるばかり、あたりは、しんとして如何(いか)
にも寂しい。前にも後にも人影見えず、誰にも遇わず、もしそれが木葉落ちつくした頃
ならば、道は落ち葉に埋れて、一足ごとにがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、
梢(こずえ)の先は針の如く蒼空(あおぞら)を指している。なお更ら人に遇わない。
いよいよ寂しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び
去る羽音に驚かされるばかり。−−(国木田独歩『武蔵野』より)
こんな美しい世界を、国木田独歩は、言葉によって、私達に残してくれました。宮沢賢治の作品もそうですが、こんな素晴らしい本に出会えた事を、私は、神に感謝して居ます。
(西岡昌紀・内科医/平成十九年の晩秋に)
武蔵野 (岩波文庫)
住いが武蔵野であったので 初めて手にとったのが高校入学を控えた中学3年生の3月の事であった。
短い随筆であり 特に何かを声高に主張する作品ではないわけだが その美しい日本語に惹かれて 本書を何度も繰り返し読んだ。また どこそこに武蔵野の面影が残っていると聞くと 自転車で見に行ったものである。高校時代はそんな時間だけは結構有った。お陰で武蔵野には多少詳しくなった。それから25年経った。
現在の住いは いわば昔の三多摩である。家の近くの大学の構内はうっそうとした雑木林であり 散歩をしていると 独歩の武蔵野に迷い込んだ気がする。武蔵野の面影を残している そんな雑木林は 今では生活の一部としてとても重要なものになってしまった。林を散歩出来るのは 東京では贅沢なのかもしれない。
「武蔵野に歩する人は 道を迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ずそこに 見るべく 聞くべく 感ずべき獲物がある」
この一文は有名であるが 初めて本書を読んでからの25年を振り返ってみて 人生も同じ事かなと 不図思った。皆さんも同じ思いではなかろうか?