歎異抄 (ちくま文庫)
親鸞の愛弟子(といっても親鸞は、教団はいうまでもなく、弟子たるものを持たなかったときいている)である唯円。親鸞死後、30数年たったころ、親鸞の曾孫の覚如が、浄土真宗教団の礎を築きつつあるころ、親鸞の信心とは異なる教えがはびこっていることを歎いた唯円が、「いやそうじゃない」と老骨に鞭打って、親鸞の生の声を書き記した書物が『歎異抄』のようである。そうろう文と現代語訳、それに、梅原猛の「こころ」と称する解説がついており、読みやすい。
親鸞は、教科書の世界では『悪人正機説』で知られていた。『歎異抄』の『第三条』に、『善人なをもって往生をとぐ、いわんや悪人をや』とある。高校時代、僕は学校の教師からも聞いたし、母親からもこの親鸞の声を聞いた。「なんまんだ(南無阿弥陀仏)と一念ずれば、善人すら往生するではないか!だったら、なおさらのこと悪人は、極楽往生する」といった感覚であった。当時の僕は、ここで言う「悪人」を、「悪いことをした人。犯罪者」というレベルでしかイメージ出来なかった。僕は「じゃ、悪いことをすればするほど、極楽に行けることになるやんか」と母に言ったことがある。しかし、同時に、そのころの僕は、「そういえば、いったい善人とは何んなの?悪人とは・・・?」「善人と悪人の境は何か?」という素朴な疑問を感じたことは事実だった。今、歎異抄を一応読み終えたが、一言感想を述べよう。親鸞は、世に言う「善人」の偽善を鋭く突いたのだと思う。しかも、権威・権限を持つ輩の「善人」ぶりをである。しかし、弥陀の本願は、かような偽善者をも、最後には救うという、だったら、なおのこと、世に言う「悪人」を救うのは当然だというだろう。だとすると、親鸞は、今でいう「体制への反逆児」ということになる。しかし、東京に出て、当時の学生運動に巻き込まれた僕は、数々の「反逆児」を見てきたが、その「偽善」が見え隠れするのを垣間見た。もちろん、僕もその一人であった。54歳になった今、「価値観が多様化」した混迷社会の今。こんなときこそ、親鸞の生きた声・強烈な声を聞くべきではないかと思う。
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早稲田大学から学徒出陣というのかシンガポール戦線に送られた詩人の鮎川信夫や40歳で徴兵されフィリピン・ミンドロ島で生死の境をさまよう体験をした大岡昇平は野間宏の「真空地帯」を日本陸軍は「真空地帯」ではない、と批判した。野間宏はフィリピン戦線でパターン死の行軍や陸軍刑務所、陸軍内務班では顔が曲がるほど上官に殴られあらゆる貴重な経験をした人。だから日本陸軍は「真空地帯」ではないことは知っている。大岡昇平は一度も殴られたことがない。戦地では忙しくリンチなどやっている暇がないそうだ。日本人は集団化すると必ずいじめやリンチをする。これは企業、自衛隊、右翼、左翼を問わない。日本人の体質だ。 野間宏は岡本太郎に「のろまひどし」とあだ名をつけられた。