テヘラン商売往来―イラン商人の世界 (アジアを見る眼)
イランの繊維業界のフィールド・ワーク経験から、筆者がであったイラン商人たちの像を親しみやすく描き出しています。
読みすすめるうちに、次々と出てくるペルシャ語の商売にまつわる用語にとまどうするかもしれません。
しかし、身近な日本の商売にあてはまるものを思い出しながら読めば、分りやすく読めるでしょう。
世界のどこに行っても、商売に大切なのは人とのつながりや、情報力/判断力などのスキルがたいせつで、基本的な
ことは変わらない、ということが実感できると思います。
この本のベースとなっているのは、筆者の10年にわたる取材経験ですが、「あとがき」には、イランの地にも
グローバリゼーションの波が押し寄せている事を示唆しています。
この本のその後についても、続編というかたちで書かれることを期待します。
テヘランでロリータを読む
イランの現実の不自由さを垣間見ることだけを目的に本書を読むとしたら、それは誤っているといわねばならないだろう。それは自らが置かれた(置かれる可能性のある)状況に対して、あまりに無自覚である。むしろ著者が語る革命やイラン・イラク戦争の体験は、イランと同じ近代世界に生きるわれわれの判断能力のあやふやさ、「夢」の非合理性や残酷さ、愚かさを自覚し自省するために読むべきである。
世の中には戦争や革命を通して変革を夢想する人々がいる。戦前の日本然り、数々の粛清を伴ったイスラーム革命、そして8年間に及ぶイラクとの妥協なき総力戦然り。今も戦争を通じて現状の打開を夢想する「フリーター」が、日本にはいるそうだ。その非合理性と愚かさを知るためには、本書の第2章と第3章の回想は実に有益である。
ところで、本書の著者は秘密の読書会を教え子たちと行うわけだが、実はこれと同じことを無名時代のホメイニーも行い、反体制的な神学を育んだことは示唆的だ。著者は小説を通して、抑圧された現実とは異なる自由の世界を夢想する。ホメイニーも自らが信じる「正しい」イスラームを通じて、堕落と抑圧から解放された神の国を夢想した。著者は過激な学生の人間としての「自然な感情」の欠如を嘆き(「彼は恋をしたことがあるのだろうか」)、ホメイニーも人間として当然の「神の道」からの逸脱を憤る。
このように見ると、著者とホメイニーは一種パラレルな関係にあるのではないだろうか。実際著者は『ロリータ』について、被害者「ロリータ」の側からの見事な読みを提示するが、「ハンバート」は暴君としてしか描かれない。これは著者がいつも指摘する共感の欠如、多様な声に対する不注意の一種ではないのか。このような著者自身の矛盾は、容易に善悪を語りたがる私たちがいかに独善的になりがちかを教えてくれるように思えてならない。